【補助線】今年はプロジェクトマネジメントの仕組みを撤廃します
◆今年はプロジェクトマネジメントの仕組みを撤廃します
年明け早々、ある中堅機械メーカのH社長からメールが届いた。人とおりの近況報告の後に、こう書かれていた。
=====
今年はプロジェクトマネジメントの仕組みを撤廃することを決心しました。好川さんも、責任があるんだから手伝ってくださいよ。
=====
この企業は弊社のというより、好川の個人事務所(技術士)のクライアントで、8年くらい前に産業用機械の開発プロセスにプロジェクトマネジメントの仕組みを導入するお手伝いをした企業である。
年賀メールにこんなことを書いてきたのは、おそらく、半年くらい前に1冊の本を紹介したところに始まるのではないかと思う。その本とは、米国のコロンビア大学ビジネススクールの教授が技術ジャーナリストと一緒に書いた
エリック・エイブラハムソン、デイヴィッド・フリードマン「だらしない人ほどうまくいく」、文藝春秋社(2007)
である。
もっとも、この本を紹介したのは常々、この社長がこの本に書いてあるようなことを言っていたからなのだが、、、
◆きっちりがいいなど、誰が決めたのだろう?
この本は非常に面白い指摘をしている。
それは、人間はきっちりしなくてはならないと思いこんでいるが、ビジネス(パフォーマンス)という視点で考えたときに、本当に正しいのかという問題提起だ。むしろ、だらしない方がよい場合もあるのではないかと言っている。日本でも、だらしないのは敵のように嫌われるが、なぜ、嫌われるのか?
この問題に対して、
・病的なだらしなさ(片付けられない症候群)は議論の対象外
・たとえば、眼科医のようにだらしないのは論外という仕事もある
という前提を置いた上で、「だらしな系」と「きっちり系」という対立軸を設定して、だらしないことの効用を分析している。
分析内容については、この記事の最後につけておくが、この本も、この議論も結構考えさせられるものがある。おそらく、H社長の会社でもかなりの部分が当たっていたのだと思う。
歴史的に見ても、この種の価値観は為政者の都合のよいように作られるものだ。だらしないよりきっちりしている方がよいなどと誰が決めたのか?
身近なところでも、家庭で整理整頓してあたりまえだというのはたとえば、母親が片付ける手間が省けるので好都合だ。組織で計画的に物事を進めなさいというのは管理する手間が省けるという管理者にとって好都合だ。
これが都合ではなく、経済合理性があると言おうとすれば、エイブラハムソン先生らが言うように、片付けるのにどれだけのコストがかかって、それによってそのコスト以上の生産性の向上がみられる必要がある。
たとえば、プロジェクトマネジャーが計画を作って仕事をすることに対して、そんなことはやってられないと抵抗する背後には理屈がある。ただしいかもしれないし、情緒的な問題を経済合理性を使って言っているだけかもしれない。
◆何も考えずにキッチリがよいというのは思考停止
ただ、いずれにしても、どんな場合でもキッチリが良いのだというのは思考停止以外の何物でもないだろう。
この思考停止が単に整理整頓や計画のコストだけの話であればあまり大した問題ではないかもしれない。しかし、きっちりすることによって、創造性や柔軟性が排除され、機会損失が起こるようであれば、それこそ、きっちりと一度考えてみる必要がある問題だ。
だらしな系のプロジェクトマネジメントなんていうのもあるのではないかと思う。たとえば、ライトブレーンプロジェクトマネジメントやアジャイルプロジェクトマネジメントはその代表例ではないかと思う。
<だらしな系の特徴>
・素早く、劇的に、多様に、より少ない労力で状況に適応し、変化することができる
・異質なものを簡単に内側に取りこむことができる
・環境や情報や変化となじみ、そこから有益な影響を受けられる
・さまざまな要素に触れ、変化を促し、問題を顕在化させ、新たな解決策を導き出してくれる
・比較的少ない労力で目標を達成することができる。労力の一部をアウトソーシングすることができる
・大きく異なる要素でも内に組み込むことができるため、攻撃や妨害や模倣に対する抵抗力がある
<きっちり系の特徴>
・需要の変化や予期せぬ出来事、新たな情報に対して融通がきかず、対応が遅れがちである
・内に含めるものの量や種類を制限する。有益なものや、不可欠なものも排除してしまうことがある
・外部からの影響を遮断して、決して相容れることがない
・未知の存在や不測の事態を嫌い、それが現れると、即座に排除しようとする
・システムを維持するために常に大きな労力が必要になる。その労力はすべて自分で背負いこまなければならない
・強さと弱さを併せ持ち、たやすく破壊されたり、失敗をおかしたり、混乱したり、模倣されたりする
コメント