電球はなぜ1000時間で切れるのか?
天野 祐吉「成長から成熟へ さよなら経済大国 (集英社新書)」、集英社(2013)
お奨め度:★★★★★+α
10月に死去された天野祐吉さんの遺作となるエッセイ。計画的廃品化、差異化、生活大国の3つにキーワードで、戦後の文明を広告を通じて論評している。
相変わらず、軽やかで、本質をついたエッセイもこれで読み納めかと思うと、残念だ。
僕は広告業界を目指していたわけではないし、広告業界に就職したわけでもないが、天野さんの創刊した広告批評をずっと読んでいた(正確にいうと途中から読み出し、古本屋を回ってバックナンバーで全巻そろえた)。
僕はエンジニアとして社会に出て、そのあと、コンサルタントとして独立するが、広告批評で学んだことはずいぶん役に立ったと思っている。それは、広告批評と通じて違う視点から自分が関わっている製品を見ることができたからだ。
そのような関わりであるからだろうが、この本の中ではヴァンス・パッカードの計画的廃品化の話がもっとも面白りかった。
「計画的廃品化」には、
1.機能の廃品化
2.品質の廃品化
3.欲望の廃品化
の3つがある。
機能の廃品化は、より良い機能を持つ新製品を市場にだすことにより、現在市場に出回っている商品が流行遅れになること。
品質の廃品化は、耐用年数が長いものが作れる技術がありながら、あえて「売る・消費させるために」耐用年数が短い商品を作る。
例えば、電球の1000時間寿命が代表である。永遠の寿命が望ましいのかというとそうとも言い切れない。永遠の寿命があれば、ユーザーは技術進化の恩恵を受けられないし、市場も飽和してしまう。
この話が難しい問題なのだが、現実問題として、無限の寿命を持つ製品は作れないのだが、この問題は表舞台から消えつつある。
そこで出てくるのが、欲望の廃品化。品質・機能が健全な商品なのに、スタイルの変化等により、大衆に心理的に好まれなくなる、望まれなくなることにより「古い」と認識されてしまう。
今の多くの製品は欲望の廃品化でライフサイクルを回していたが、やがて、センスの差異化によってライフサイクルが形作られるようになる。
このあたりの歴史観は独特の切り口で、たいへん参考になる。
今、イノベーションが大変注目されている。しかし、こういう目でイノベーションを見てみると、全然違った側面が見えてくる。イノベーションとは、機能の廃品化の中でここまできたが、実は、欲望の廃品化の中にイノベーションがあるではないかと思う。この辺のことも考えながら、この本を読んでみると一段と面白い本だ。
この本の最後に「別品」の話がでてくる。天野さんは別品であれという。遺言として受け止めたいものだ。
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