あいまいはよくないのか【ほぼ日読書日記 2009年5月26日】
先週の土曜日から、事務所の引っ越しなどでばたばたしていて本を読む気にならない。そんな中で、ぺらぺらとめっくった新書に思わぬ、当たり。
この1年くらい、印象に残っている本はほとんど新書だ。各出版社はこぞって新書に参入するが、実際に、優秀な編集者の多くを新書に投入しているんじゃないかと思うくらい。
さて、今日の当たり本。
呉 善花「日本の曖昧力」、PHP研究所(2009)
あいまいであることは、悪いことなのだろうか?この問題を考えさせられる。
日立系の会社の社長を務められたあとで、プロジェクトマネジメントに関するいろいろな経験や知見を本や講演で披露されている名内泰藏さんという方がいらっしゃる。名内さんの論点は曖昧性とどうつきあうかというもの。本もおもしろいし、講演も一度聴く機会があったが、たいへん、おもしろかった。
名内 泰蔵「曖昧性とのたたかい―体験的プロジェクトマネジメント論」、翔泳社(2005)
ただ、多少の違和感が残った。この本を読んでいて、その違和感が何かわかったような気がした。
あいまいという言葉は、少なくともビジネスワードでネガティブになっているが、韓国出身の比較文化学者である呉 善花さんは、これがこれからの世界の求めるものになるだろうと指摘している。調和がとれた人間関係とか、環境への順応性ということが求められるからだという。
ビジネスでも本当に成果を求めるのであれば、曖昧性を排除することはすべきではない。たとえば、分担の曖昧性。勤勉な国民性を持つ日本では、分担の曖昧性はプラスであった。本当の意味で成果にコミットするからだ。
では、もの作りにおいては曖昧性は悪か?たしかに、仕様が曖昧なままではモノやシステムは作れない。
だからそれを悪いモノだと前提にして考えるのがよいかというとそうとは言い切れない。そんなことすら感じさせる本。
コメント