◆カーズナーの「次世代プロジェクトマネジャー育成」セミナー
4月23日の金曜日にMIRの浦正樹ダイレクターとプロジェクト経営に関する情報交換ミーティングを行った。その中で、前日に行われたハロルド・カーズナー博士のセミナーの内容が話題になった。
プロジェクトマネジメントの将来
~次世代プロジェクトマネジャーを育成する~
主催は、ハロルド・カーズナー博士がSenior Executive Directorを務めるInternational Institute for Learning, Inc.(IIL)の日本のブランチ。
僕がプロジェクトマネジメントに関してもっとも大きな影響を受けた人を一人上げるとすればハロルド・カーズナー博士であり、22日のセミナーにも参加したかったくらいなので、浦さんからいろいろとセミナーの内容を聞いた。
◆シンクロニシティ
実は、この話になったのには僕がカーズナー博士のファンである以外の理由がある。22日のこのセミナーに参加できなかった理由でもあるのだが、この日、僕は僕で、「経営とプロジェクト」というセミナーをやっていた。正確にいうと、「第1期戦略実行リーダー養成講座」の説明会の中で、このタイトルのお話をしていた。
その資料を浦さんに見せたところ、一枚の図をめぐってガーズナー博士のセミナーの話になった。僕の作った図を見て、カーズナー博士が言っていたことがピンときたというのだ。その図とは、プロジェクトの成果の捉え方、プロジェクトの企画の方法を描いた図である。
簡単にいうと、プロジェクトの成果は「成果物(デリバブルズ)」と「価値」から構成される。開発すべきデリバブルズを決定するのは、顧客や組織の要求である。プロジェクトで創出すべき価値を決定するのは、戦略計画や創発としての戦略である。この両者において、成果物を開発することは価値創出の手段になる。そして、価値の創出は成果物の品質を高める。
プロジェクトの成功は成果物と価値の2つのバランスで決まるものであり、成果物のQCDだけで決まるものではない。
ということを意味している。
5年くらい前にカーズナー博士の話を聞いたときに、博士は、プロジェクトマネジャーのスキルとして、テクニカルスキル(PMBOKに代表されるオペレーションマネジメント)のスキルはせいぜい半分でよく、残り半分は戦略スキルである必要があるといっていた。5年前はこの言葉は非常に印象に残っており、活動の方向性になっている。
今回のセミナーでは、この比率がさらに上がり、90%のスキルは戦略スキルであると主張されていたとのこと。まさに、わが意を得る思いである。なんとうれしいシンクロニシティだろうか!
話が前後するが、では、戦略スキルをもって何をするかといったときに上の図になる。単に顧客や組織の要求を拾って成果物を開発し、対価を得るだけではなく、自らが組織の戦略を読み解き、あるいは、「意図せざる行動と学習の過程から生まれるパターン形成」を行う創発を実現し、新しい価値を加えていくことを実現するのが戦略スキルである。
◆プロジェクトマネジャーに必要なスキルの変化の背景
カーズナー博士の話は非常によくわかる。プロジェクトマネジャーのスタートは、オペレーションとしてのプロジェクトの管理である。ところが、90年代後半から、オペレーションにおいて戦略の重要性が増してきた。その主要原因になったのが、SCMである。SCMは単に現場のオペレーションマネジメントの問題ではなく、ライフサイクルを戦略的にマネジメントする手法である。当然、プロジェクトにも戦略的マネジメントが求められる。カーズナー博士は10年以上前からこのような指摘をしていた。この時代はプロジェクトマネジャーは、上位戦略を「意識して」与えられたプロジェクト課題(実行戦略)を実行するという仕事だった。実行戦略では、プロジェクトの目標とアプローチが与えられ、それに従って、オペレーションを管理することが求められた。
次に、ライフサイクルが短くなるにつれて、オペレーションに求められる戦略性が高まってきた。これが50%説のあたりだと思う。この時代では、戦略を読み解き、与えられた課題に対して、戦略に整合するような課題解決をすることを求められるようになっていた。つまり、プロジェクトの目標は与えられるが、その目標に対するアプローチは自分で戦略的な視点から考え、実行していく必要が生じてきた。日本では、今、このレベルにいると思われる。
さらに近年は経営環境の不確実性が高まってきた。これが90%説の背後にあると思う。経営環境の不確実性により、戦略実行もアジャイルな対応が求められるようになってきた。つまり、環境変化に合わせて、プロジェクトの課題そのものを決めることが求められるようになってきた。これが、カーズナー博士のいう「次世代のプロジェクトマネジャー」のイメージだと思われる。
これは、プロジェクトマネジャーのスキルアップが求められていることはもちろんだが、組織的にみれば、プロジェクトマネジメントを行う階層の変化も意味している。特に、日本ではなんだかんだといいながら、まだ年次管理の色合いが濃いので、特に考えておくべきポイントである。
◆次世代プロジェクトリーダーとしての戦略実行リーダー
PMstyleでは、このような戦略スキルを持つリーダーを「戦略実行リーダー」と呼び、カーズナー博士の示唆する次世代プロジェクトマネジャーのマネジャー像としていくことを提案している。あえてプロジェクトマネジャーという言葉を使っていないのは、プロジェクトマネジャーにはオペレーションマネジャーという色合いが濃くついているためだ。戦略実行マネジャーは、現行の役割でいえば、プロジェクトマネジャーであるケースもあれば、プログラムマネジャーであるケースもあるし、また、場合によってはプロジェクトスポンサーであるケースもありうる。
そして、「戦略実行リーダー」を育成するための講座を開講することになった。戦略実行マネジャーという次世代のプロジェクトマネジャーとして、今後活動していきたい人は、ぜひ参加を検討してほしい!半日×5回で戦略実行リーダーのスキルが学べる講座です。
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「第1期戦略リーダー養成講座」(全5回)
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第1回 戦略実行のマネジメント(2010年06月09日(水))
第2回 戦略実行リーダーの意思決定(2010年06月23日(水) )
第3回 プログラム/プロジェクトによる戦略実行(2010年07月07日(水) )
第4回 戦略実行を支える人材マネジメント(2010年07月21日(水) )
第5回 戦略実行を支えるコミュニケーション(2010年08月04日(火))
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詳細・申し込みはこちら
→ http://www.pmstyle.biz/smn/strategy/managementlist.htm
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◆取り残されるという「勝手な思い込み」
我々のもう一つの失敗はグローバルスタンダードに従わないと世界から取り残されるのではないかという、勝手な思い込みしてしまったことである。これは大変な勘違いであった。文化ほど独自なものはない。文化は弱さの原因でもあるが、他の人のまねできない強さ、つまり、独自能力の原因でもある。
このフレーズは、加護野忠男先生の「経営の精神」に出てくるフレーズである。この議論で最も念頭に置かれているのは、SOX法による内部統制である。SOXに限らず、一般的な議論だと思うが、この議論は難しい議論である。何が難しいかというと、競争のルールをどう考えるかだ。
ビジネスに限らず、スポーツ、外交など、さまざまな分野で日本のルールに対する駆け引きは下手だという指摘がある。それがもっとも顕著に表れているのがスポーツだろう。柔道のようにお家芸と言われた種目で、度重なるルール変更によってメダルが取れたら喜ぶレベルになってしまった競技もある。ジャンプや、スキー複合のように、せっかく、切磋琢磨して強くなってきたら、いきなり、ルール変更でまったく勝てなくなった競技もある。ビジネスでもこういう例はたくさんある。興味があれば、青木高夫さんのこの本を読んでみて欲しい。怒りがふつふつとわいてくるだろう(笑)。
青木高夫「ずるい!? なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか」、ディスカヴァー・トゥエンティワン(2009)
まあ、加護野先生の言葉でいえば、そのような環境変化に愚直に対応してきたのが、今の日本を作っているということなのだろうが、、、
◆欧米と日本ではルールの決め方が違う
さて、ビジネスにおいてスタンダードの持つ意味は、商品、企業、国といったあらゆるレベルでの競争のルールに他ならない。つまり、ビジネスで競争をするにあたって、これだけは守りましょう。という暗黙の了解である。加護野先生の指摘は、それをグローバルスタンダードという名のもとに、欧米にコントロールされているという指摘である。青木さんも同じことを言われている。
なぜ、こういうことになるのか?日本におけるルールの決まり方を見ているとよく分かる。ルールを決める目的(戦略)がない。目先の問題を解消するためにルールを決めるというもっとも原始的なやり方でルールを決めていることがほとんどである。よく言えば誠実である。
スポーツや貿易を見ているとよく分かるが、ルールがそのように決められることは珍しくなっている。目的ありきだ。
目的 → ルール → 問題
というロジックになっている。競争なのであたり前だ。例えば、
ジャンプの日本の優位性をなくしたい(戦略)
→ スキー板の長さを短くしよう
→ スキー板が長いと、飛行の安全性に問題がある
というロジックになっているわけだ。問題があまりにもとってつけたものであれば支持されないルールになるが、残念ながら欧米のシナリオを書く能力は日本人の比ではない。
ところが、日本人がルールを決めるときには、
問題 → ルール → 成果
となる。上の場合と、この場合では、できるルールが全く違う。これがグローバルスタンダードというルールの作られ方である。
◆ルールにどのように向き合うか
ただし、ビジネスの競争をするのにルールを作って、そのルールを守りながら公正な競争をしようという発想自体は正当なものである。この否定は、資本主義の否定である。
すると、道は3つしかない。
(1)新しいルールで競争力を高めていく
(2)ルールを作る場で勝つ
(3)ルールができることに抵抗する
かのいずれかである。加護野先生の指摘は、今まで一番目の選択肢でやってきたことへの警鐘である。(2)は今後は分からないが、今のところ、アングロサクソンが世界を支配しているので、難しいと思われる。そうなると(3)しかない。(3)の先輩は中国人である。
◆プロジェクトマネジメントのグローバルスタンダードを巡る詭弁
前置きが長くなったが、プロジェクトマネジメントの話に移ろう。プロジェクトマネジメントの世界には、大きなルール(グローバルスタンダード)が2つある。PMBOK(米国)とPRINCE2(英国)である。ずっと拮抗しながら発展していっているところに、プロジェクトマネジメントというツールの位置づけの重要性が伺われる。
このような情勢の中で、日本はPMBOKに従おうとしている。ただ、ここで考えるべきなのは、そもそも、プロジェクトマネジメントのルールの目的は何かという点である。
例えば、PMBOKが注目去れ始めたときに、まとこしやかに
グローバルプロジェクトでは、いろいろな国の人が同じ方法で管理をしなくてはならない。だから、PMBOKがよい
と言われた。
これは明らかに詭弁である。どこをごまかしているかというと、透明性とオープンであることをごちゃ混ぜにしている。グローバルプロジェクトに必要なのは透明性であって、オープンであることではない。ITを使った管理を前提にしているので、オープン性もある程度問題になることは理解できるが、本質的には管理はその国にあった方法で、
(1)アカウンタビリティの明確化
(2)インタフェースの統一
だけをしておけば、マネジメントの透明性が担保でき、協働できる。文化に根ざさないやり方など非生産的なこと、きわまりない。
プロジェクトマネジメント自体が目的であれば話は別だが、手段である。手段である限り、プロジェクトを成功させるという目的を達成できればよい。その場合、合理性が手段を選ぶ基準になる。ダイバーシティが求められるときに、ものごとを明確にするというのは、生産性が高いやり方とはいえない。日本流の必要な部分だけドキュメント化し、根回しで意思決定をしていくというやり方の方が遥かに合理的である。
◆一周遅れか、一周進んでいるのか
例えば、ドキュメント化の是非という議論があるが、信頼関係が構築されており、かつ、スピードの勝負をしているときにドキュメント化することはあまりメリットがあるとは思えない。
ドキュメントに記録的な意味合いがあるのであれば、各プロジェクトにエスノグラファーでもつけて記録すればよい。というのは冗談だが、例えば、7つの習慣で有名なスティーブン・コヴィーは、「スピード・オブ・トラスト」という本の中で、「信頼」がスピードを上げ、コストを下げ、組織の影響力を最大化すると指摘している。
スティーブン・コヴィー、レベッカ・メリル 「スピード・オブ・トラスト」、キングベアー出版(2008)
この考え方は、日本の企業は高度成長期の中で構築したものを、グローバルスタンダードに従うために、自ら捨ててきた考え方である。そして、仕事の仕方がだんだん、雑になって、品質が下がり、コストをかけて品質を維持するという愚か者のサイクルに入っている。
印象的には一周進んでいるのに、自分が信じられないで、一周遅れのランナーを一生懸命追いかけている気がする。企業が閉塞感に包み込まれた今こそ、一度、立ち止まって考えてみるチャンスである。
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◆「計画」に対するマインドセット
いよいよ、鳩山政権が発足した。政権交代もさることながら、なんと言っても「理系」それも、経営工学でStanfordのPh.Dを持つ鳩山由起夫氏が日本のリーダーになることが注目だ。良くも悪くも、社会の価値観や風土が変わるのではないかと期待が高まる。
ビジネス上で考えてみたときに、理系と文系の違いで目立つのは、(構想も含む広い意味での)計画に対する感覚だと思う。いいか悪いかは別にして、日本人のビジネスマンは「計画は計画、実施は実施」と考える傾向が強い。良くも悪くも人に依存した仕事の進め方をする。Aさん、Bさんの計画は単に計画に過ぎないと考える。リスクマネジメントまでを計画ベースで行うプロジェクトマネジメントが普及してきても、この計画に対するマインドセットはあまり変化していないように思える。ここが変われば相当な社会的インパクトがある。
◆マニュフェストを実行できる人材ではなく、あくまでも「人物」が重要の不思議さ
この変革の鍵を握っているのはマスコミではないかと思う。
選挙のときにマスコミが、マニュフェスト、マニュフェストと騒いでいたのは記憶に新しいが、政権政党であった自民党のマニュフェスト実行に関する本格的な検証のニュースはとうとう、お目にかからなかったような気がする。要するに、終わったことをぐたぐたと言うよりは、次に何をするかという方が重要だという発想だ。
今回の民主党の組閣のマスコミの論評を見ても、マニュフェストはどこかに行っている。その人物の「実力」、「実績」、「経験」、「キャリア」、「人脈」など、もっぱら人物主体の論評がなされている。あるいは、組織的な「配慮」などと盛んに書いている新聞もある。
本来、これらは「結果」であって、マニュフェストの実行のために「最適」な人材配置をしているはずなのだ。本当に最適化どうかはこれから分かるわけだが、マスコミが今の段階で評価すべきなのは、マニュフェストの実現のために今回の人選がどのようなメリットとデメリットがあるかであって、それ以外ではない。
◆過ぎたことは忘れ、先だけを見る
過ぎたことは忘れて、新しい気持ちで次の目標を設定して動く。これは日本人の強みでもあると思う。
経営やマネジメントでもこのような傾向は強い。目標の達成については大きく問題にしない。ただし、トラブルや問題が生じた点については、それを解決した方法をノウハウとして蓄積するし、それによって仕組みを改善することにも熱心である。
ただし、これは論理矛盾がある。検証されないということは、結局、計画段階で何を宣言しようがその場の議論になるだけで、どうでもいいということに他ならない。まあ、これも刹那を重んじる日本人らしいといえば、らしいのだが、、、
日本人という表現をしてきたが、おそらくこれは文系の発想である。理系の発想は、積み上げた計画を作ると、その計画に徹底的にこだわる。理系の鳩山政権はマニュフェストの実現にこだわるのではないかと思う。というか、マニュフェストが実現できなければ、丸く収まっても、あるいは、景気の立ち直りや労働環境の改善などの成果があったとして、理系的には失敗だと思う。
◆問題は結果ではなく、プロセス
もちろん、最終的に必要なのは、結果である。しかし、それはマニュフェストに書かれた「仮説」に基づき、いったんは行い、修正しながら行われるべきものであり、変革をするというのはそういいうことだ。仮に施策が麻生政権のものと同じに収まったとしても、その実現プロセスで得られるものは大きい。結局のところ、今回の政権に国民が期待するのはそのあたりではないかと思う。
もし、仮に鳩山政権がマニュフェストにこだわり抜く活動を展開し、成果を上げれば、社会的なインパクトが期待できる。ビジネスの世界でも、計画に対する価値観は大きく変わることが期待できる。がんばってほしいなあと思う。
]]>◆注目されるサーバントリーダーシップ
ロバート・グリーンリーフの提唱する「サーバントリーダーシップ」というリーダーシップがある。昨年末に日本語訳がでた影響もあると思うが、とにかく、注目されるようになってきた。
とくに、トーマス・フリードマンの予言する「フラット化する世界」の中で、従来型のリーダーシップに代わって、中心的なリーダーシップ概念になるだろうと言っているのをよく耳にする。もう少し、さかのぼれば、ピーター・ドラッカーのいうナレッジワーカーには、サーバントリーダーシップが必要になるのだろう。
リーダーシップがそうであるように、サーバントリーダーシップも具体的にこういうものだという説明がしにくい概念である。ロバート・グリーンリーフのサーバントリーダーシップを日本に紹介された神戸大学の金井壽宏教授はご自身に子供ができた頃に、「親の子供に対する行動」をサーバントリーダーシップの説明に使われていたが、いまだに、この説明がもっともしっくりとくる。
◆家族型経営とサーバントリーダーシップ
日本の高度成長期には、「家族型経営」を標榜している企業が多かった。社長は父親、シニアマネジャーは長男、マネジャーは次男、社員は末っ子、そこに母親として管理スタッフがいる。要するに、経営組織に家族のメタファ(喩え)を持ち込んだ。もっと厳密にいえば、家族ではなく、「家」のメタファを持ち込んだ。そんな会社が多かったのではないかと思う。
このメタファは、今の時代はともかく、サザエさんの時代には、強烈なメタファだった。家族というのは唯一、損得を超えた存在である。
家族の中で、親は自分の子供の成長や成功を願う。自分の生活を顧みずに、子供に尽くす。子供を育てる(保護する)義務はあっても、成功させる義務があるわけではない。かといって、子供が成功すれば自分に見返りがあるなどと考えているわけでもない。ただ、ひたすら尽くす。子供は感謝し、自然に老いた親に恩返しをしようとする。影響力の法則でいうところのレシプロシティが自然に機能する。
◆サーバントリーダーシップは日本型経営の中心概念
ビジネスの中に損得を超えた概念があるというのは極めてわかりにくいが、そのような構図が出来ている日本企業の中では、サーバントリーダーシップは、ずっと昔から普通のことだったのではないか。皮肉なことに、欧米で注目されだした頃に、日本人は自らその価値を理解することなく、放棄してしまい、「トヨタウェイ」のように欧米が体系化したものをありがたがって導入するというパターンになりそうだ。
金井先生の講義でこの話を耳にしたときに直感的に思ったのはこのことだった。実際に直感は当たっていたように思う。今のところサーバントリーダーシップに反応するのは、例外なくいわゆる日本型経営で成長してきた企業だ。なくして、初めて価値が分かったのだろう。ただし、これを「人工的」にやるのは並大抵のことではないが、DNAがどこまで残っているのかが問題だ。
しかし、サーバントリーダーシップがもう一度、日本型経営復活のキーワードになることは間違いない。何らかの方法での開発(復元)が求められる。
ここで注意して起きたいのは、類似品である。サーバントリーダーシップに似て非なる概念はたくさんある。特に「支援」という類似品がくせ者だ。支援は明示的なガバナンスの上に、上が下を助けることである。目的は上(経営)の目標を達成することにある。これに対して、サーバントリーダーシップは組織のすべての人の自己実現に機能する。
ここが大切なところである。
]]>編集工学を提唱する松岡正剛氏が作った編集ゲームに「ミメロギア」というのがある。ミメロギアはミメロギアミメーシス(模倣)とアナロギア(類推)という二つのギリシア語をくっつけた松岡氏の造語。
まず、ペアの言葉でお題がでる。たとえば、「珈琲・紅茶」、「トヨタ・ニッサン」。
これに形容をつけてそれらの対比をいっそう穿って強調するというゲームだ。
上のお題なら、「午前の珈琲・午後の紅茶」、「安定のトヨタ・探偵のニッサン」(ちなみにこれらは松岡氏の作品)。
こういう編集技法は結構、いろいろなところで使われている。最近、本を読んでいて、おっと思ったのが、ニューヨークでユニオン・スクエア・カフェを展開しているダニー・マイヤーの
ダニー・マイヤー(島田 楓子訳)「おもてなしの天才―ニューヨークの風雲児が実践する成功のレシピ」、ダイヤモンド社(2008)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4478004897/opc-22/ref=nosim
にあるミメロギア。
独り言のサービス・対話のホスピタリティ
わかるなあ。
ついでに、松岡正剛氏主宰する「ISIS編集学校」の「守」コースで、僕が回答したものをひとつご紹介。
ディベートするビキニ、ダイアログする浴衣【お題はビキニ・浴衣】
ちなみに、「ISIS編集学校」では、年に2回くらいの感じで、ミメロギアのオープンコンテストをやっている。
http://es.isis.ne.jp/mimelogia/
これに参加してみるものいいでしょう。
言葉遊びだと思う人もいると思うが、言葉の遊びにこそ、ものごとの本質が見えるという気もするし、コミュニケーションの本質が見えるような気もする。実際にミメロギアを体験してみて感じたことだ。
さて、では、遊んでみましょう。
お題を3つ設定します。といっても、言葉遊びをしたいわけではないので、堅めのお題になります。
好きなお題を選んで、コメントにミメロギアを書き込んでみてください!
お題1:リーダー・メンバー
お題2:リーダー・マネジャー
お題3:プロマネ・プロデューサー
三連休初日の1月10日は、神戸大学のMBAコースのプロジェクト研究の発表会というのにMBAフェロー(MBAコースのOB)ということで駆り出された。
MBAフェローとして参加していた人は15名。全部で12グループの発表を聞き、点数を付けるという志向のイベントだが、MBAコースに行っている人の労力に拍手という感じだった。僕たちがMBAコースに行っていた頃に比べると、だんだん、大変になってきているようだ。コースとしては充実しているということだ!
いくつか、気になった発表もあったので、また、別の機会に触れるかもしれない。
さて、18時すぎまで、このイベントがあって、そのあと、京都に戻り、その足で京都ゑびす神社の「十日ゑびす大祭」に。毎年行っているが、今年は不景気のせいか、境内だけではなく、参道まで参拝客の列ができていて驚いた。
雪がかなり本格的に降る中で、参拝の列が進むのを待っている間、ひまつぶしにMBAのイベントに参加し、ゑびすさんにおまいりしているという行動について考えていた。
経営学は、うまくいっているケースを取り上げて分析し、その成功要因のパターンを発見して、体系化・理論化することを基本とする学問であるが、理論を構築するいわゆる「学者」は「運」というような要因を嫌う。
まあ、「運」だといってしまえば、それですべてが終わってしまうので、自分たちの立場を守るというか、正当化するような一面もあるのだと思うが、それにしても、精神的なものをすべてモチベーションとか、挙句の果てにはフローだとかといった概念に転化して語り、偶発的なものをすべてリスク概念で扱おうとするのは違和感を感じないでもない。
実際に、企業の経営者と話をすると、一部上場であろうが、非公開のオーナー企業であろうが、2時間くらいの時間を頂戴し、突っ込んでインタビューしていくと必ず、「運」という言葉は出てくる。
僕の知り合いの経営者で今年喜寿を迎えるが、32歳で創業して、昨年度まで、毎年、増収増益を繰り返してきた人がいる。そんなに大きな企業ではなく、今でも百数十名の企業だ。彼は、運がよかっただけだというが、僕もそう思う。今では150億を超える売り上げを作っており、利益率も40%を超えている。このこと自体が運だとは思わないし、彼もそうは思っていないが、40年以上、増収増益というのはやっぱり運だ。
プロジェクトでも同じだ。プロジェクトの失敗には必ず理由があるが、成功するのは運の存在は無視できない。
運というのはあるように思えるし、それは、MBA理論のような経営理論と対立するものではないという気もする。
では、「運」というのをマネジメントの中でどのように取り扱うべきか、これは大変に深い問題なのではないだろうか?数年前から、阪本啓一さんが「スピリチャルマネジメント」ということを言い出しているが、なかなか、興味深い。
僕は三菱重工という会社に入り、新入社員の年はプラントのコンピュータ制御の仕事をしていた。そこで驚いたのは、なんとコンピュータに「お神酒」をかけていた(もちろん、筐体の隅っこのほうだ)。当時は、「お神酒をかけると潜在バグが顕在化しなくなるとでもいうのか」という感じで、冷ややかにみていたが、その後、いろいろな経験をする中で、なんとなく理解できるようになってきた。
人間ではどうしても抗いようのない、出来事がある。たとえば、天災。たとえば、地震が起こって被害がでれば、スケジュールは間違いなく遅れて、コンティジェンシーを見ていたとしても、経営的な被害がでることは避けられないだろう。
では、何ができるのか?地震が起こらないことを祈るしかない。リスクマネジメントでも、発生頻度が極少で、ダメージが極大な事象は、天に祈れと言っている(笑)
お神酒をかけるのかを理屈にするなら、
シンボリックな行動により、安全意識を向上させ、事故をおこさせない
などといった理屈になるのかもしれない。しかし、そんなことでは説明しきれないように思う。やはり、「運」というものがあり、コンピュータの中の神を沈めるために、お神酒をかけるのだ。
マネジメントとは難しいものだなあと思うことがある。思ったとおりには行かないからだ。思ったように行かない理由は2つある。ひとつは、所詮、経験した範囲を理論化したものでしかなく、一般性は知れていること。つまり、理論がひとつできれば、例外の山ができる。もうひとつはより本質的な理由で、マネジメントの対象が人間である以上、人間の持つダイナミックスに振り回される運命にあるのだ。
だから、マネジメント理論というのはいらないとはならない。ないよりは、あるほうがよいに決まっている。仮に、状況に合わないとしても、糸口にはなるし、精神的な安定剤にもなる。
逆説的に考えると、神頼みとか、神にすがるとかいうが、その意味ではマネジメント理論にすがるのは、神にすがっているのと同じようなものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、お参りしてきました。新年早々、与太話で失礼しました。
今年も商売繁盛しますように!
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