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2007年11月29日 (木)

【補助線】シャープの液晶事業を生み出した5つのスポンサーシップ

◆佐々木正と和田富夫

電子・情報分野のエンジニアであれば、佐々木正の名前を知らない人はいないのではないだろうか?富士通の役員からシャープに転身し、電卓のIC化で偉大な業績を上げ、シャープの事業基盤を作った一人と目され、副社長まで務めた人物だ。社外においても、世界最大の学会IEEE(The Institute of Electrical and Electronics Engineers,Inc.)において日本人としては5人目になる名誉会員を授与されるなどの評価を受け、また、さまざまな公的機関の役職を務めてあげている。近年では、ソフトバンクの相談役として、孫正義社長の後見人的存在になり、注目された。

その佐々木正がシャープの液晶事業でも大きな役割を果たす。

シャープの液晶事業の基盤作りを担ってきたのは、和田富夫というエンジニアである。和田はEL(エレクトロルミネッセンス:電圧をかけると蛍光を発行する無機体。一時、ブラウン管の代替技術として本命視された時代があった)による液晶テレビの開発プロジェクトに取り組んでいた。

しかし、なかなか、うまくいかず、プロジェクトは解散し、プロジェクトメンバーは左遷される。和田も技術管理部の配属になり、現場を離れて技術者の裏方仕事に従事することになった。

◆液晶にみたビジョン

それから3年、技術管理の仕事にも慣れてきたころ、夕食をとっていた和田は運命の出会いをする。「世界の企業 現代の錬金術」というドキュメンタリーで、RCAの液晶技術の開発を知る。いてもたってもられなくなった和田は、当時の産業機械事業部長である佐々木に液晶に関するレポートを上げる。あきれながらとりあえずレポートを受け取った佐々木は、サポートを読むや否や、RCAに連絡を取る。そして、表示速度が遅いため、実用に堪えないという情報をRCAから得る。

しかし、和田はあきらめない。こうすれば表示速度の問題が解決するというのを延々と佐々木に説明する。ついに、佐々木は和田に、「一線の技術者は出せない、実用化できなければ解散」という2つの条件で、開発を許可する。和田は背水の陣で、社内で協力してくれるエンジニアを自分で探す。また、人事に頼み、新入社員を配属してもらう。この一人が大学で有機化学を専攻していた船田文明だった。和田は、しばらく様子を見て、実験計画をすべて船田に任せる。

◆電卓の鬼

さて、当時のシャープの主力製品は佐々木が先鞭を付けた電卓であった。電卓においては、電卓の鬼とまで言われた鷲塚諫が大成功をおさめてトップシェアを誇っていたが、カシオの追い上げに、泥沼の価格競争に陥っていた。電卓の課題は電力と小型化だった。それに対して、両陣営とも画期的な策はなく、価格競争に陥っていたのだ。鷲塚は、コスト競争に終止符を打つ切り札を探していた。

この状況を見て、和田は、鷲塚に電卓の表示装置に液晶を使うことを提案する。しかし、その時点の技術では、あまりにも遅くて使えない。また、長時間連続使用により化学反応で気泡が生じるという問題もあった。

電卓のニーズにこたえるために頑張っていた船田が世紀の大発見をする。電圧を交流にすることにより、画期的に表示スピードが速くなり、かつ、気泡も生じないのだ。意気込んで電卓部隊に提案するも、電卓の表示装置は直流で設計されており、全面的な設計変更になるという理由で見送りになった。

◆液晶が電卓を救う

和田は気落ちすることなく、時計、電子レンジなどが、さまざまな応用先を探して奔走した。一方で、鷲塚は断ったあとも、不毛なコスト競争への対処に迷いに迷う。そして、ついに、液晶の採用を決断した。結果として、この判断が社を救うことになる。交流への設計変更をした電卓を開発しているうちに、ライバルのカシオが「カシオミニ」という電卓史上に残る商品を発売した。シャープが直流で考えていたレベルでは価格的にも、サイズ的にも到底太刀打ちできないような商品で、家計簿などのニーズを取り込み、電卓はビジネス用途から一挙に市場を広げる。同時に、トップシェアもシャープから奪い去っていった。

シャープの液晶電卓もなんとかめどがついてきた。価格を下げることなく、消費電力を下げることによって、電池代がかからなくなり、ライフサイクルコストで勝てる見込みが立った。

◆独断発注と事後承諾

いよいよ生産である。しかし、社内には反液晶の逆風が強く、なかなか、ラインを立ち上げられない。完成期限まで4か月を切った。生産装置の提案を依頼していた日本真空技術に、3か月で開発を頼むが、営業担当者には無理だと断られる。そこに先方の副社長が現れ、その場で契約するなら引き受けると譲歩する。まだ、決済などされていない。

和田はここで、首を覚悟で契約書にサインをした。会社に戻った和田は、当時、専務になっていた佐々木に、「独断発注してきた」と告げる。これを聞いた佐々木は「俺が佐々木の事後承諾を取る」と答えた。

約束通り、生産機械は3か月後に届き、無事に、液晶表示器の生産のラインが立ち上がる。シャープは、カシオからトップシェアを奪い返した。

これが、「液晶のシャープ」の始まりである。ちなみに、電卓の鬼といわれた鷲塚は液晶を取り入れる戦略を推進する旗頭になる。和田は不幸にも脳梗塞に倒れるが、液晶への執念からよみがえり、液晶のエンジニアとしての仕事人生を送った。

【シャープの液晶事業を生み出した5つのスポンサーシップ】

シャープの液晶事業を生み出したのは、まずは技術者であり、プロジェクトマネジャーとしての和田の功績が大きい。しかし、和田だけではできなかった。見事なスポンサーシップがある。

スポンサーシップを発揮したのは、佐々木と、鷲塚である。その特徴を抽出してみよう。

(1)自身のビジョンを背景にした意思決定をする
まず、最初に注目したいのは、ELで失敗した和田の提案を、条件付きながらも受け入れた佐々木である。佐々木は和田のレポートを見るなり、RCAに連絡をとった。これは(おそらく)技術者としてのビジョンのなせる技であろう。
佐々木先生の本を読んでみると、このときには行けるという確信があったようだ。技術者にしか見えないビジョンもある。ビジョンを持ってリスクの高い決断をすることはスポンサーシップに欠かせない点であろう。

(2)自身のビジョンを実現することに執着する
一方で鷲塚である。いったん、棄却した液晶の採用を、悩んだ挙句に行う。この意志決定は単にリスクが高いというだけではなく、それまで培ってきた鷲塚の実績をすべて壊してしまうかもしれないような意志決定である。にも関わらず、そのような意志決定をした理由は、はやり、電卓や技術に対する自分のビジョンがあり、そのビジョンの実現にこだわったためであろう。このビジョンこそが、プロジェクトスポンサーに欠かせないものだ。

(3)大局観を持ち、流れをつないでいく
プロジェクトスポンサーは流れを大切にすることが必要だ。大局観という言葉があるが、大局的に流れをみて、どういう判断をするかを決める。日本真空技術で、独断発注してきた和田も大したものだが、やはり、それを受け止め、流れを止めるべきではないと判断した佐々木の判断はすごい。

(4)信頼関係を持つ
そのような判断をする背景には、佐々木と和田の信頼関係が不可欠である。ストーリーには出てこないが、日常的に信頼関係の構築をしていたことは想像に難くない。特にスポンサーの立場でいえば、プロジェクトマネジャーを評価視点にみる傾向があるが、良いところを探して活かすような付き合い方こそが、信頼関係の構築につながるのだろう。

(5)ものごとを客観的に判断する潔さ
最後は、ものごとを客観的に判断する潔さである。一般的に言って、スポンサー的な立場に立つ人は、それまでに実績を上げている。鷲塚の場合も例外ではなかった。苦戦していたとは言え、電卓でトップシェアを作り上げた張本人であり、また、液晶の採用を判断する時点でもトップシェアを持っていたわけだ。その状況で、アーキテクチャーを全面的に変えるというのは、勇気もいるだろうが、自分の感情を抑え、状況を客観的に判断して、意志決定をする、一種の潔さが必要だ。人間プライドがあるので、これはそんなにやさしい話ではない。しかし、スポンサーは、自分のビジョンを実現するためには、自分の考えを捨てる潔さが必要である。

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好川哲人

技術経営のコンサルタントとして、数々の新規事業開発や商品開発プロジェクトを支援、イノベーティブリーダーのトレーニングを手掛ける。「自分に適したマネジメントスタイルの確立」をコンセプトにしたサービスブランド「PMstyle」を立上げ、「本質を学ぶ」を売りにしたトレーニングの提供をしている。